元伊勢・式内社
忍山神社へようこそ
愛と導きの神
導き、愛情、夫婦円満、起業、出世、交通安全、家内安全など
邇邇芸命を導いた猿田比古命、日本武尊を導いた倭姫命、国民を愛する天照大御神、夫の猿田彦大神を愛した天宇受女命などの神様をお祀りする「愛と導きの神」の神社です。
詳しくは(御祭神一覧)をご覧ください。
表参道
本殿
拝殿
もともと忍山神社は猿田比古命の神社(忍山神社)と天照大御神の神社(忍山神宮)と別々の神社が合流し、現在に至ると考えられています。
崇神天皇7年(紀元前91年)に、天皇からの命で伊香我色雄命が猿田比古命を祀る神社を建立しました。猿田比古命をお祀りする神社の中で最も古い神社です。
また、延喜式という平安時代中期に編纂された法律(律令)の施行細則の中に、全国の神社で祈年祭の奉幣を受ける一覧があり、この一覧に掲載された神社のことを式内社といいます。その中に忍山神社の記載があります
垂仁天皇18年(紀元前12年)、倭姫命が奈良から伊勢へ天照大御神を遷す途中、忍山の地を管理していた忍山宿祢の屋敷へ寄られ、半年間滞在されました。
この縁で、天照大御神を祀る神社が建立されました。
忍山宿祢の娘、弟橘媛は日本武尊の妃となられました。弟橘媛は日本武尊の東征(関東の地を平定)に同行され、現神奈川県の走水にて荒れる海を鎮めるために海へ身を投げられ亡くなりました。それによって海が落ち着き、日本武尊は先へ進むことが出来ました。
その後、日本武尊は足柄峠(神奈川県と静岡県の県境)に登ったときに、弟橘媛のことを想い出し「吾妻(あずま)はや」と声を上げました。この「吾妻」から東のことを「あずま」と呼ぶようになったといわれています。
日本武尊と弟橘媛(竹細工)
弟橘媛(竹細工)
戦国時代に天照大御神を祀る忍山神宮が戦禍を被ったことで、ご神体を携えながら各地を移動し、猿田比古命の忍山神社の地におさまりました。それ以降現在の地で猿田比古命と天照大御神を祀る神社となりました。
天照大御神